YUTARO’S STORY
電業のはじまり
電業は、1人の男が
“落とし物”をしたことからはじまった
創業者、濵谷勇太郎は元警察官。
神戸の回船問屋である北風家で生まれた勇太郎は、姫路市白浜町で塩田や廻船問屋を営む濵谷家に婿養子として入ることになった。当時18歳であった。しかし、『胆力に溢れた商売人』といった性分ではなく物静かで真面目な性格だったため、27歳のある日、濵谷家の家業を継いでいく意志がないことを明かし、妻・みつと二人で濵谷家を出て夫婦二人で生きていくことを決意。北風家と所縁があった神戸へ移り住み、警察官として働く事になった。
この頃の神戸は、すでに外国人居留地を抱えた異国情緒豊かな街で、居留地警察署に勤めることとなった勇太郎は、外国人相手の事故や事件にも対応する機会が多く、自然と異文化に親しみを持つようになり、また当時としては貴重な外国語を学ぶ機会も得た。
暑い夏のある日、仕事を終えて自宅に向かっていた勇太郎は、大きな体を必死にかがめて道で何かを探す男と出会った。滝のような汗をかき、ふらつきながら探し物を続ける男の姿に、勇太郎は見かねて声をかけた。
「私は警察の者です。疲れているようですし、すぐそこの私の家で休みながら事情を聞かせてもらえますか。」
男は申し訳なさそうに礼を言いながら勇太郎の家に入ると、しおしおと経緯を話し始めた。
「実は、お得意さんから預かった茶色い封筒を今朝落としまして…。もし紛失となれば、私はクビです。」
男の名は平田善平。機械関係の輸入品を扱うイギリスの貿易会社・ヒーリング商会※に勤める人物だった。すると、善平の話を勇太郎の隣で聞いていた妻・みつが目を丸くさせて、奥から茶色い封筒を取り出してきた。
「これ、近所のおばあちゃんが拾って『巡査さんに』って届けてくれたものなんですけど…」
と言いかけた時、善平はそれをひったくるように取り上げ、中から油紙に包まれたこぶし程の包みを取り出した。
「あった!よかった!これです!これは私が落とした部品です!」
子供のように喜ぶ善平に、勇太郎は「一体これは何ですか?」と聞いた。
「これは鉄道の部品です。実は、日本で走っている鉄道はすべて外国の部品で動いております。私は一日も早く、この部品を日本で作りたいと思っておりまして、会社に内緒で日本の鍛冶屋に持っていって、どうにか日本でも作れんもんかと相談しておりました。その道中で落としてしまったというわけです。」
先程までの狼狽した様子は微塵も感じられず、堂々とした面持ちで語られる善平の話に勇太郎は引き込まれていった。善平は熱の入った話を続けた。
「日本の工業は、まだまだあかんのです。鉄道や発電所の機械は日本で作る技術がないんです。私はそれが情けなくて…。でも、それもあとわずかの時間です。今にうちの商品はすべて日本人の手で作れるようになります。大いに矛盾していますが、私はそれを楽しみにヒーリング商会で働いてます」。
勇太郎は、一会社員の身でありながら、ここまで日本の工業界のことを考えて思い悩み喜ぶ善平の姿に、本当の男の仕事を見た気がした。それから、二人は友人として気の置けない関係を築いていった。
※横浜にあったイギリスを相手とする輸入商社「株式会社ヒーリング商会(L.J.HEALING&CoLTD.)」。東京、大阪、大連など外地を含めて、日本で広く商業を展開していた。
自分の人生を掛けて、友人の志を継ぐ。
ある日突然、勇太郎のもとに思いもよらない連絡が入った。元気だったはずの善平が仕事中に倒れ入院したというではないか。勇太郎は慌てて見舞いに駆け付けたが、そこには生気を失った善平の姿があった。起き上がることも、上手く話すこともできなくなっていた善平は、勇太郎に2つの頼みごとをした。
1つは“日本の工業技術を欧米に負けないものにする”という志を引き継いでもらいたいこと。もう1つは、語学に長けた勇太郎にヒーリング商会に入ってもらい、イギリスと日本の橋渡しをお願いしたいということだった。
勇太郎は重篤の友の願いを聞き入れ、ヒーリング商会で善平の志を継ぐと誓った。
1909(明治42)年、勇太郎は警察へ辞表を提出。34歳を迎えるころ、勇太郎は善平との約束通りヒーリング商会へ入社した。当時の同社は、日本政府高官にもパイプを持つ一流商社の地位にあったが、重役はすべてイギリス人で、日本の商習慣との摩擦から必ずしも経営はうまくいっているとは言い難い状況。勇太郎は警官時代に身に付けた語学力でイギリス人と日本人の間に立ち、様々な交渉にあたることとなり、通訳兼交渉窓口として、双方から大きな信頼を得ていった。
勇太郎が入社して数年後、日本社会はかつて善平が予言したとおりに変わりつつあった。全国各地でポツポツと芽吹いた国産製品が成長し、値段の高い海外製品を市場から締め出し始めたのだ。ヒーリング商会はたちまち行きづまり、本拠地であった神戸支店を閉め、会社機能を大阪へ移すと同時にイギリス人社員全員の本国引き揚げを決定した。
勇太郎はそれまでの働きぶりを評価され、移転先の大阪支店で引き続き本国との連絡役を任ぜられたが、一度流れにのった国産化の波は留まることなく、ヒーリング商会の日本完全撤退は、そう遠くないように感じられた。かといって、善平の想いを胸にここまで励んできた仕事を途中で手放す気にもなれず、勇太郎はヒーリング商会が最後の時を迎える日まで骨身を惜しまず働こうと決めていた。
またも起きる“運命を変える”新しい出会い。
大阪支店に移って数日、在庫の整理をしていたある日のこと、勇太郎のもとに発電所関連部品や鉄道部品の販売を行う関西電業㈱の担当者が慌てた様子で訪ねてきた。現在行っている工事で、まだ国産化が追いついていない部品が欠品してしまい、販売元になっていたヒーリング商会を探してやってきた、とのことであった。
すぐにこの部品を売ってくれ、と迫る担当者だったが、支店の中は神戸から運んできたばかりの数百種に及ぶ在庫の山で溢れかえっており、とても見つけ出せそうにない。勇太郎は幾日か待ってくれと頼んだが、どうしても早急に必要だと食い下がる担当者は、ついに自ら腕まくりして在庫を漁り始めてしまった。根負けした勇太郎も一緒になって部品を探すことにし、結局夜中の2時になってようやく目当ての部品を探し出すことができた。
はじめは迷惑な客だと感じていたが、無事に見つかった時の達成感はひとしおで、共に在庫の山に挑んだ関西電業の担当者に戦友のような感情を持つようになっていた。この男は、名前を山田といい、それから何かと勇太郎を頼って部品や技術の相談にくるようになった。関西電業と山田のおかげもあって、ヒーリング商会の商売は一時の賑わいを取り戻し、山田は勇太郎の重要なパートナーになっていった。
活況を取り戻したヒーリング商会だったが、不良品を出したことによって、1918(大正7)年に状況は一変する。大得意先となっていた関西電業の倒産が新聞各社で一斉に報じられたのだった。勇太郎は山田氏や懇意にしていた関西電業の社員のもとへ向かい励ましの言葉を贈ったが、みな一様に悲しみに暮れた表情をしており、倒産が覆りようのない事実であることを物語っていた。
関西電業の倒産から一ヶ月後、勇太郎の家に関西電業の山田と工場長が訪ねてきた。
「この度、何とか関西電業を再建しようという話が持ち上がりました。そこで、ぜひ濵谷さんに社長になっていただきたいと、社員全員で決めてまいりました。50人の社員のためにも、工業製品の国産化のためにも、どうかよろしくお願いします。」
あまりに突然のことに呆気にとられる勇太郎だったが、『工業製品の国産化のため』―というのは自分をヒーリング商会へ導いた平田善平の夢でもある。…とはいえ、勇太郎はとても即決する気持ちにはなれず、3日の猶予をもらって、その日の面談を終えた。
『善平ならどう言うだろうか』―そんなことを考えずにはいられない落ち着かない心持ちのなか、一通の手紙が勇太郎のもとに届いた。美しい字で書かれた手紙の差出人は平田善平の妻で、善平が長い闘病の末、ふるさとの新潟で静かに息を引き取ったと綴ってあった。
同じ夢を追い、共に走った時間こそ短かったものの、常に心の中で自分を支えてくれた仲間がこの世から去ったことで、勇太郎はあらためて善平との誓いを果たすために、自分という人間の力を大きくしていきたいと考え、関西電業の社長を引き受ける覚悟を決めた。
1919(大正8)年5月、倒産した関西電業株式会社を引き継ぐ形で「大阪電業合資会社」が誕生。濵谷勇太郎は、その初代社長に就任。勇太郎44歳の時だった。現在の「株式会社電業」のはじまりである。
その後、100年余り。
決して順風満帆とはいえません。勇太郎は「国産化」実現のため、「一貫生産体制の確立」と「品質管理の徹底」に執念を燃やし、地道に試行錯誤を繰り返しました。また、鉄道部品の製造において不良品は一つたりとも許されるものではないという信条のもと、製品検査と品質管理を文字通り徹底的に行います。積み重ねた会社の信頼と、確かな精度を誇る様々な新製品の開発に成功し、生産技術を確立。大阪電業は業界の注目を浴びる存在へと成長していきました。その後は、全国の都市交通局・民営鉄道へ製品の納入を始め、日本国有鉄道の電化工事計画にも携わったほか、新幹線建設に部品の供給で多大な貢献を果たすなど、日本の鉄道界に欠かせない企業としての地位を築きます。現在は、会社名を「電業」へと変更し、海外へも市場を広げ、時代の動きを鋭敏に感じ取った変革を進めています。
数奇な運命を辿りながら、無一物で身を興し、友の志を受け継ぎ、日本の工業のために身命を賭してきた濵谷勇太郎の夢はこれからも「電業」として受け継ぎ、「より良い社会のために」という想いが世界に広がっていくことを願っています。